祖父の死からTea house HOUSEができるまで

祖父との生活

祖父は2020年11月10日に亡くなりました。
家で息を引き取りました。コロナも関係して在宅診療だったので。

私は18歳の時に大学進学を機に台湾から日本に引っ越して、祖父が亡くなるまでの約5年間祖父の家で2人暮らしをしていたんですね。基本的に家事は各自で行って、ご飯も別々ですね。たまにおやつとか、おつかいお互いに頼んだり、冬だと鍋したり、すごく過ごしやすかったです。

私が生まれる前に祖母が亡くなり、父の会社の上司が祖父を台湾に呼んで会社で働かないかと提案をして祖父の台湾移住が決まりました。私が生まれた年に台湾に移住したので、本当にずっと一緒なんですよ。

小学生の時、家に呼んだ友達に「ちびまる子ちゃん」のまる子と友蔵みたいだね、とよく言われてました。
その時に、他人からみて私たちの関係性が、いわゆる「優しいおじいちゃんとかわいい孫」の象徴的な関係性にみえる、ということを初めて知りました。

米寿祝い・生前葬

祖父の亡くなる2年前、2018年ですね。
その年に88歳を迎えるんですけど、祖父は米寿祝いという名の生前葬を企画しました。

年金のお金をコツコツ貯めてたみたいで、米寿祝いを皮切りに、祖父が自分の死に向けて着々と準備している様子を直近で見ていました。祖父との会話もそういった内容が増えましたね。
今日はお寺と話して何々を決めたよ〜とか、米寿祝いの会場見に行ってきたり、終活しているんだな〜と思いながら話を聞いてました。

余談ですけど、その会話の中で特に印象深かったのは、祖父が献体を申請したことですね。祖父は亡くなったあと、家族に迷惑をかけたくない、お金をかけてほしくないという思いから献体を申請したいと言ってました。
献体を申請するには家族の許可が必要なんですけど、私の父や叔父叔母にこれから話すんだな、と決意の表れじゃないけど、そういう瞬間を体験できましたね。
祖父のことだから、昔からそういった考えがあったと思いますが、私も初めて聞いたときは、そう来たか!とびっくりしました。でも、まぁ祖父の考えだしと思って「へー!いいじゃん。」と応えたのを覚えています(笑)

このように、祖父の米寿祝いを行うまで、祖父は着実と終活の準備をして、無事米寿祝いを開催することができましたね。
祖父のこの一連の準備過程が楽しそうで、キラキラしていたので、私も一緒に祖父の死の準備できたのでありがたかったですね。

なので亡くなった日、朝に発見したんですけど。末期の膵臓癌発覚して1ヶ月頃だったんですけど、たまたまその時、両親が台湾からきていたんですよ。隔離期間もあったので1ヶ月くらい滞在できるということもあって、おじいちゃんが元気なうちに会おうか、とね。死因は膵臓癌関係なく老衰でしたね。

朝、お父さんが「おじいちゃん、息してないかも、確認して。」と言って私を起こすんですよ。
ドア開けた瞬間わかりましたね。お父さんに「死んでるよ〜。」って言って、その日本当に天気良くて、カーテン越しでもわかるくらい日差しが強くて、清々しく去ったというか。私も晴れ晴れしていましたね。

在宅診療だったので、看護師さんとお医者さんに電話して、お父さんは大学病院に電話して、といった感じでした。
大学病院のお迎えの車をお見送りという形にして、家族、親戚、私の友達に連絡して最後の挨拶をしました。
お葬式もなかったので、次の日にレンタルしたものを撤去して、すぐ終わりましたね。

祖父の老い

2020年の5月ごろですね。学校がコロナの影響を受けて5月スタートになった時かな?最初の学校の授業といいますか、ZOOMで同級生同士で自己紹介をする会があって、丁度そのZOOMを行う直前に祖父が家の庭で座り込んで立てなくなっていたんですよ。

私、その時に生まれて初めて祖父の介助をしたんですけど、これは祖父と生活していちばんの衝撃的な出来事でしたね。
「ついに!おじいちゃんの老化が始まった....!」と思いましたね。祖父が祖父じゃなくなるといいますか、老化で身体を制御できなくなる瞬間と私も今後立ち会わなければいけなくなるのか...!と覚悟を決めました。

私は2017か18年の時にほんと少しだけショートステイのアルバイトをしていたのですが、その経験もあって高齢者の身体の起こし方とか簡単な介助の仕方を知っていたので、祖父も同様な方法で起こしましたが、もう!重みが違いました。
自分のおじいちゃんが石のように重くて、多分衝撃もあって、ショック受けましたね〜。初めて祖父のことでお父さんに連絡しましたもん。そのくらいビッグニュースですよ。

それから祖父は介護用品の電動ベッド、手すり、手押し車をレンタルしてましたね。

まぁそんなことがあって、祖父が立ち上がれなくなって私が介助するシーンが生活にプラスされるようになりました。それでも日常生活は特に変わりはないですが、私は外出した時に祖父が倒れてないか心配したり、祖父の部屋を気にかけるようになりましたね。


その時の体験を作品にしたんですけど、この作品はめちゃお気に入りです。

祖父の死後 〜おじいちゃんの家を離れる〜

よういちお別れ展
開催期間:2020.11.28 & 29

祖父が亡くなって17日後、祖父のいた痕跡が残っているうちに祖父の家とDummy spaceの2箇所で「よういちお別れ展」を行う。
余談ですが、飼っていたインコが会期中に祖父の後を追うように突然亡くなりました。

*~*~*~

祖父の死後。私は祖父を送り出した多幸感でいっぱいでした。よういちお別れ展を家で開催したり、そのときしかできないことを実行し満喫して、私は祖父の部屋を自分の部屋にしたり、家を1人でどう使うか毎日模索してルンルンでした。

ある日の夜中、私はトイレに行こうとドアを開けた時にドアノブが壁に当たって「ゴーン」と鳴ったんですね。
その時にふと、祖父が生きていた時によく聞いていた祖父の鳴らす生活音じゃん、コレ、と思って、祖父と重なったような不気味な感覚に陥いりました。

次の日、起きても気分が沈んでいて、祖父が近くにいるような気配がしてならない。家に押しつぶされるような、すごく不気味な感じ。祖父の家が知らない家になっちゃう感じ...?このままでは飲み込まれる!家を出よ!と思って台湾帰省を決めました。

「かつておじいちゃんと暮らした3Dスキャン」を「今私が住んでいるお家」でARしてみたら、「私が今いる家」が「おじいちゃんち」の空洞から見える。また、「おじいちゃんち」と「私が今いる家」が重なって空間の判別ができなくなると今度は「おじいちゃんち」が消える。         

*~*~*~
台湾に帰省後、祖父の家に幼馴染、私はその幼馴染の台湾の実家で暮らしました。たまたま同じ時期にお互いの実家のある都市に移動して、実家に誰も住んでいないことから、できたんですけど。家を交換したんです(笑)

家を交換したことで、私は祖父の家と距離ができて、尚且つ他者が家に入ることで、私が祖父と暮らす上で無意識に内面化していた家のルールに拘っているのを知ることができたんですよ。

例えば、キッチンの壁にフライパンをかけるためのフックを貼りたいって幼馴染が私に言うんですね。
この時にキッチンのどこどこにフックが増えるのを祖父は嫌がるのではないか、と考えている自分に気付いて、ハッとしたんです。

他者が家に入り、自分の生活に合わせて変えていく、それは私も同様なんですけど、幼馴染とこのようなやりとりを経て、故人は生者の生活にこういった影響も残すのか...!とびっくりしたんです。
人が亡くなるということは、特に長い期間一緒に住んでいた場合、家での過ごし方はある種その人たちのコミュニケーションでもあって、このコミュニケーションとの訣別を私はしたかったんだ、と気付けたんです。

幼馴染が祖父の家をこういう風に使うのか、私には馴染みのない生活用品が使われて驚いたり、一方で私が幼馴染の家で自分の生活に合わせて配置を少し変えたり、私は祖父との生活で身についたルールにどんどん気付いて段々拘らなくなっていきました。


そのときだったかな、母親から祖父の家を解体するよ、と聞かされました。
これ、人生2回目に衝撃な話です。

日本帰国 〜開かれた家〜

天使数字 喫茶室ポップアップ
開催期間:2022.10.15- 2022.10.23

家の解体が決まり、家を主役に何か出来ないかと喫茶室ポップアップを行う。アーティスト・クリエイターをお招きし、作品の展示と販売を行い、昼は喫茶室、夜はBarの形式でお客様におもてなしを行った。
      
*~*~*~
祖父の家のルールを再認識した上で日本に帰国して、再び祖父の家に戻ったとき、家は更に古びた印象を受けました。昔はあまり気にしてなかったのか、単純に老朽化が進んでる部分もあると思いますが。

それよりも、もう、祖父の家が全然違ってみえる。
祖父が置いた絵、祖父が配置したティッシュ置き場、トイレに生理用品を置くことができる、幼馴染が貼ったフック、といったように
人の痕跡を愛でることができるようになったな、と。

このとき私は祖父の家、祖父の死を乗り越えることができたんだな〜と思いました。

1年ぶりくらいに日本の友達に会いまくって祖父の家の解体話をしていたら、ひょんなことから友達と祖父の家で喫茶室ポップアップを企画しよう!という話になり「天使数字」を開催しました。

リスタートとしてのTea house HOUSE

Tea house HOUSE
装身具、販売サイト、写真

他者との別れによって、私たちは常に他人には理解し難い不安に襲われる。時間が記憶を薄くしても、私たちはその感覚を覚えており、深い闇に包まれそうになる。その時、喪失と共存する術を身につけなければならない。あなたがあなたを第三者視点で眺めることで、その闇と上手く付き合えるだろう。喪失も“あなた”の一部として受け入れる手助けとしての装身具をつくる。

写真モデルの遠藤さんとの2ショット。喫茶店の部長さん、お店の修理や内装が得意。

遠藤さんとの出逢い


写真のモデルの遠藤さんは、私がよく行っている喫茶店で出逢いました。
もう、出逢った時に運命だと思いましたね!

その日はなんだかパッとしなくて、家にいてもなんだから喫茶店に行こうと夕方ごろに家を出ました。
エスカレーターで上がって、目に入った席に座り、ボンゴレビアンコのセットを頼んで食べ、一息つくと私の左手前の4人席に遠藤さんが座っていました。

銀色の細長いテープ状のものを机に並べ何やら作業していましたね。ハサミで切ったり、切ったものを布巾で拭き取ったり、何度も同じ作業を丁寧に行なっていて、並ならぬ拘りを感じたんですよ。
髪はオールバック、シャツにベスト、黒のパンツの格好だったので、従業員か関係者の方にみえました。もう、これはやばいと思いましたね。

もう釘付けですね。もう最高なおじいちゃんに出逢っちゃった!と大興奮です。今日逃したらもう会えないな、と思って声をかけたいとすぐに思いました。それと同時に、つくった装身具を遠藤さんに身につけてもらい、写真を撮ろうと閃いたんです。

祖父が亡くなってから、私は他者と新たに出会うことになんだか億劫になってしまっていて、おじいちゃんをテーマに制作する上での核といいますか、信頼要素がなくなったように思えたんです。
だったんですけど、遠藤さんとの出逢いが私をもう1度制作するきっかけを与えてもらったというか、そういう縁があると思いました。

その後友達と合流して3時間、あまりにも勇気が出なくて、ずっと座ってましたね。
友達に、第一声は何と声をかけたらいいか、名刺持ってきてないから学生証を提示して信頼してもらおうか、など相談していました。最終的に他の従業員の方に確認してから声をかけることにしました。

もう緊張しまくり!先に自己紹介をして、目的を話し、「私のつくる装身具のモデルになっていただけませんか?」とズバッとお聞きしたところ、「私でよければ...」と返答をいただいた時は、もう心の中で号泣ですよね。
もう嬉しすぎる、大歓喜!ありがとう〜〜!でした。

こうして私は遠藤さんと出逢い、助けられ、沢山の方の優しさで制作のリスタートを切ったのでした。
ここまでお読みいただき誠にありがとうございました。私の話が誰かの糧に、装身具が生活の一部になれたら幸いです。

最後になりますが遠藤さんを始め、カフェドパリ池袋西口店の従業員の皆様、そして私の友人、相談に乗っていただいた方々、どうもありがとうございました!